立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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岩屋城とアラモの砦

先日、柳川の方と話をしている時に岩屋城の話になり、アラモの砦の攻防は2回も映画になったのに、あの壮烈な岩屋城の戦いがなんで映画にならないのだ、とその方が残念がっておられました。確かに両方とも、まことに過酷な戦いであり、片方が全員玉砕すると言う、極めて悲劇的な結末である共通点があります。ちょっと両者の戦いを比較してみますと...。

  岩屋城の戦い アラモの戦い
場所 福岡県太宰府市 テキサス州サンアントニオ市
年代 1586年(天正14年) 1836年
戦いの期間 7月13日〜27日(15日間) 2月23日〜3月6日(13日間)
指揮官 高橋紹運 トラビス大佐・ジェームスボウイ大佐
戦闘員 高橋紹運側 700余名
島津側 50,000名といわれる
テキサス側 200余名
メキシコ側 1,400〜1,600名
死傷者 高橋紹運側 700余名
島津側 将校27騎 士卒900余
テキサス側 183〜250名
メキシコ側 300〜400名

アラモの戦いは、ご承知のとおりテキサスがメキシコから独立し、テキサス共和国を打建て、その後アメリカの一州となるきっかけとなった戦いであり、アメリカにとっては、リメンバーアラモのもとに士気を鼓舞し、アメリカとしての一体感を高める格好の題材です。

それもあり、1960年と2004年に映画化されています。私の年代の方は、ジョン・ウエインが私財を投じて制作し、自ら監督するとともに、デビー・クロケットに扮し、リチャード・ウイドマークがジム・ボウイの役で出演した『アラモ』の方がデイミトリ・テイオムキンの音楽とともに記憶に残っておられる方が多いと思います。

この戦いは、民衆が独立を求めた戦いでありました。(もっともメキシコ側から見れば国際的にも、米国にもメキシコ領として、認められていたテキサスが分捕られたという見方になるでしょう。)

一方岩屋城の戦いは「義」による、戦いでした。
圧倒的軍勢を持つ島津側から、戦いの名義として「今回の戦は、貴下に対するものではない、大友の悪政に対するものであるので、速やかに城を明け渡せば、和睦して退陣する」旨を声名せしめましたが、紹運の答えは「宝満、岩屋、立花の三城は紹運、統虎(宗茂)が関白の命によって、預かり守るものであり、関白の仰せなくて引き渡すことなど、思いもよらぬ」と極めて明快なものでした。

また、戦闘が始まって二昼夜たち、岩屋の外城がついに破られた7月16日、薩将島津忠長は、紹運に「大友の悪政の為に民衆は苦しみ、一国すら保ちえず、天下の笑いものになっている、義者は不仁者の為に死せず、智者は闇主の為に謀らず、と古語にもいうではないか」と開城を進めたが、紹運は、「国衰えても義を守って、節を変ぜず。君君たらずともよく臣節を尽くしてこそ、洵の武士であろう。貴国衰えたらば君に叛き、国を捨てられるのか」と答え開城に応じませんでした。まさに、義に殉じた戦いであることを示したやり取りでしょう。

このような「義」をテーマにしたものは、忠臣蔵が代表的なものですが、今日新たなドラマ作りとして、この「義」からの切り口が受けるのかどうかちょっと疑問です。ただ、前述の戦いの経過、そして紹運敗れた後の島津側の礼節を見ても、この戦いは武士道或いは騎士道の美しさを感じさせる戦いであります。

特に岩屋城が敵に落ちたとは知らずに、宗茂の返書を首にかけ岩屋城に戻った、谷川大膳が島津に捕らえられ、島津忠務の前に引き出された時のやりとりは、心に残る美しいものです。

忠務から「紹運殿はすでに敗れた、今までと同じ恩禄は差し上げるから、こちらに随従しないか」と誘われたのに対し「忝き次第でありますが、いまさらそのような気持ちは毛頭ありません。ただ、お願いしたいことは一つ。私の首にかけた立花からの返書は、首を刎ねてからお読みください」と返事をしたのを、忠務涙を流し「これぞ誠の武士である。其の書状披見の必要はない。大切になされて立花に帰られよ」と縄を解き、刀を返し、人をつけて立花に送り届けたと言うエピソードです。

「義」ということを別にしても、死を覚悟した紹運と宗茂の親子の情、過酷な戦い、其の中にあっての、武士としての精神の美しさなど、ドラマ性に溢れた戦いだと思います。是非、映画或いは、テレビドラマにして欲しい題材ですね。

2006年2月 立花家17代 立花宗鑑


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