大友氏は中原(藤原)能直を初代とし、能直の庶子から志賀・一万田・田原、能直の子二代親秀の庶子から戸次・野津・木付・田北などの庶家が出ます。大友宗家の九州下向はこれらの庶家より遅れ、三代頼泰の頃蒙古襲来に備えるためであろうといわれています。 戸次氏はこの大友氏の庶流で、重秀の代に大神系戸次氏を継いだと言われます。鎌倉時代には豊後国の戸次庄などの多くの地頭職をもつ、守護大友氏に匹敵する豊後国の領主で、そのため戸次貞直は蒙古襲来に際し博多に設置された、鎮西評定衆・引付衆となります。しかし、南北朝時代以後は戸次氏は次第に勢力をなくし、また本貫戸次庄も失い、戦国期の戸次親載の頃には本拠地を豊後国大野郡藤北名の鎧嶽城に移しました。現在立花家文書中には、戸次氏関係のものは鑑連関係のものがほとんどです。これは鑑連が戸次家を鎮連に譲った(=古文書も譲る)ことに因ると考えられます。戸次道雪(実名は鑑連)は、永禄年間(一五五八〜一五七〇)に戸次家からは初めて大友家の加判衆となります。また大永六(一五二六)年四月に鑑連は戸次家の家督を継ぎ、天文末年頃に戸次家の家督を甥の鎮連に譲っています。ところが、この鎮連は天正十一年に島津氏に通じ鎧岳城にて挙兵し、義統に誅伐されています。その際、鎮連の子統常は鎮連の島津内応を諌めたが聞きいれられず、翌年島津軍と戸次荘中津留河原で戦い戦死したといいます。このため鎮連・統常の事蹟は不明な部分が多いようです。 |