立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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 戸次家と立花家  戸次道雪  立花宗茂  高橋紹運  誾千代

戸次家と立花家大友氏は中原(藤原)能直を初代とし、能直の庶子から志賀・一万田・田原、能直の子二代親秀の庶子から戸次・野津・木付・田北などの庶家が出ます。大友宗家の九州下向はこれらの庶家より遅れ、三代頼泰の頃蒙古襲来に備えるためであろうといわれています。 戸次氏はこの大友氏の庶流で、重秀の代に大神系戸次氏を継いだと言われます。鎌倉時代には豊後国の戸次庄などの多くの地頭職をもつ、守護大友氏に匹敵する豊後国の領主で、そのため戸次貞直は蒙古襲来に際し博多に設置された、鎮西評定衆・引付衆となります。しかし、南北朝時代以後は戸次氏は次第に勢力をなくし、また本貫戸次庄も失い、戦国期の戸次親載の頃には本拠地を豊後国大野郡藤北名の鎧嶽城に移しました。現在立花家文書中には、戸次氏関係のものは鑑連関係のものがほとんどです。これは鑑連が戸次家を鎮連に譲った(=古文書も譲る)ことに因ると考えられます。戸次道雪(実名は鑑連)は、永禄年間(一五五八〜一五七〇)に戸次家からは初めて大友家の加判衆となります。また大永六(一五二六)年四月に鑑連は戸次家の家督を継ぎ、天文末年頃に戸次家の家督を甥の鎮連に譲っています。ところが、この鎮連は天正十一年に島津氏に通じ鎧岳城にて挙兵し、義統に誅伐されています。その際、鎮連の子統常は鎮連の島津内応を諌めたが聞きいれられず、翌年島津軍と戸次荘中津留河原で戦い戦死したといいます。このため鎮連・統常の事蹟は不明な部分が多いようです。

大友・戸次略系図 立花家略系図

一方立花氏も同様に大友氏の一門といわれます。立花氏は大友一門のなかでも名門といわれ、豊後大友氏に対して「西大友」とも称されていました。ちなみに貞載の兄弟にあたる七代氏泰は足利尊氏の猶子となったため、これから大友氏は源姓を許されるようになります。大友一門の立花氏が源氏を称するのもこうした理由によります。南北朝期、大友貞宗の三男貞載は立花山に城を築いてこれに拠り、立花氏を称します。室町半ば頃の立花城は立花氏の居城というより筑前における大友氏の番城であり、豊後から次々と番将や番衆が送り込まれ、立花氏と共にその防衛に当たっていました。永禄年間に立花城主立花新五郎某が大友宗麟に背いて滅ぼされ、その跡をついだ鑑載も永禄八年に謀反をおこしてしまいます。吉弘鑑理・戸次道雪らに攻められ鑑載は下城、一旦は許されますが、十一年に毛利氏と結んで再び宗麟に叛きます。さすがに今度は許されずに鑑載は敗死します。

立花城は眼下に博多湾をのぞむ重要な場所に位置し、宗麟としても信頼篤い家臣に任せる必要がありました。そこで元亀二年新たに立花城にはいったのが戸次道雪です。

道雪には男子がいなかったので娘誾千代に、やはり大友家の部将高橋紹運の長子統虎(後の宗茂)を養子をとり、これに立花の家督を譲ることになります。宗茂は豊臣秀吉の九州平定ののち、大友氏からの独立が認められ、筑前立花城から筑後柳川城へ移って大名となります。関ヶ原合戦で西軍に与したため改易されますが、二代将軍秀忠に許されて奥州棚倉で大名にとりたてられます。これが田中氏の改易によって、ふたたび筑後柳川に封ぜられることになりました。宗茂の実弟にあたる直次の子種次にも三池郡内で一万石が与えられることになります。宗茂を継いだ養嗣子忠茂(実は直次の四男)以降、立花家代々は筑後柳川十万九千余石を領知して、十二代藩主鑑寛のとき明治維新を迎えます。


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