立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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 戸次家と立花家  戸次道雪  立花宗茂  高橋紹運  誾千代

高橋紹運立花宗茂の実父。紹運の実名は鎮種といいますが、その実家は吉弘家であり、大友義鎮(宗麟)の宿老として知られる鑑理の次子にあたります。高橋家を継いだ後の天正元年(一五七三)ころ、三十代の半ばで入道し「紹運」と号します。大蔵姓高橋家には大友一族の一万田弾正忠の弟が入って鑑種と名乗っており、のち御笠郡岩屋・宝満の城督に任ぜられました。ところが、鑑種は永禄九年冬、毛利氏や秋月氏に呼応して大友家に謀反をおこします。戸次道雪(鑑連)らに岩屋城を落とされるが、宝満城に移って籠城を続け永禄十二年十一月に降伏するまで抗戦を続けます。 高橋紹運下城した鑑種は助命されて豊前小倉に移されますが、高橋家の老臣たちは鑑種に従うことを拒みました。そこで大友宗麟は紹運を高橋家に入れて、岩屋・宝満城をまもる筑前高橋家を再興することとしました。

天正十四年の六月中旬にいたると、島津義久は九州平定を意図して大軍を北上させます。軍勢は日豊路と肥筑路に分かたれますが、肥筑路の軍勢は五万に及ぶ大軍であったと言われています。軍勢はまず筑紫広門を肥前勝尾城を攻め、ついで紹運の守る筑前岩屋城を囲みます。これに先だって宗茂は紹運に立花城への退去を勧めたと言われていますが、紹運は宗茂の弟直次らを宝満城に入れ、決戦の構えを示します。諸書によって異同はありますが、城方は七〇〇余名と伝えられます。城方は累日奮戦しましたが、衆寡敵せず、ついに七月二十七日に紹運以下ことごとく敗死してしまいました。落城の前日七月二十六日条の『上井覚兼日記』には、紹運が城を明け渡さないことを条件に和を乞うたものの、島津方に拒絶されたという記事を載せています。『寛政重修諸家譜』などによれば、紹運の享年は三十九とあります。


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