皆さん、明けましておめでとうございます。
大変長い間、ご無沙汰です。
立花家の正月は、道雪公、宗茂公、誾千代姫を祭る三柱神社、菩提寺である福厳寺などの神社とお寺参りでスタートします。神社は敷地内にある神社を含めると7神社、お寺は6箇所で、元日は、ご先祖様へのお参りで終わります。
先日立花宗茂の書状を数通入手しました。立花家には立花文書、大友文書などが伝わっていますが、こちらから出状した手紙類を入手する機会は限られています。この新たに入手した文書について、柳川市古文書館の学芸委員の方から説明をしてもらいました。詳しい解説はいずれ、このサイトで専門の学芸委員にしてもらいますが、興味深かったのは藩主としての行政面での仕事ぶりが窺われる点です。
宗茂の時代は会社にたとえれば、まだ創立間もない新興企業、執行組織も成熟していない時期であり、社長が全てを自分で決めなければならない時期だったと思います。
書状の一つは、宗茂が棚倉から柳川に再封されることが決定した(元和7年―1621年)後に書かれたもので、柳川での屋敷割りについての問い合わせへの返書です。
棚倉から、宗茂とともに帰柳した家臣は新たに住むところを決めねばなりません。これは結構大変な仕事だったのでしょう。宗茂は返書で、屋敷の数は限られており、皆の希望には添えないが、屋敷割り案作成の担当者を3名指名し、彼らに案を提出させるので、それまで待って欲しいと言っています。この文書には、宗茂は「飛騨」の名前を使っており、そのことから推定すると柳川再入城から2年ぐらい経っている時期のようだそうです。これだけ時間がかかってもまだ屋敷割が決まっていないということは、かなり宗茂も苦労したのではないかと思えます。
柳川は、田中氏改易後、元和6年から宗茂が再入城する元和7年の初めまで、幕府から派遣された3人の代官によって、治められていましたが、その間に収穫された米はいずれの所属(幕府か柳川藩か)とすべきかに関連した書状もあります。これは最終的には幕府勘定奉行へお伺いを立て、裁定の書状を受け取っているので、それに従うよう宗茂は指示しています。当然のことながら、宗茂の柳川再封に当たっては、様々な細かい行政上解決すべき事項があったことを窺わせます。 |