花押とは、記号あるいは符号風の略式の自署(サイン)で、その起源は自署の草書体(草名)と言われています。自身の名乗りを替えると花押も大きく変化し、また一見同じような花押も、詳しく見ると細かい変化があるようです。時には、花押だけ書かれた古文書もあり、誰がどのような花押を使用していたかを知る事は非常に重要です。
また、花押が注目される理由の一つに、何時出されたか分からない古文書の年号確定に、花押を利用できることが挙げられます。そのため、いろいろな人物の花押の変遷と使用年代が研究されています。
戸次道雪(鑑連)の花押は、山田邦明氏の研究に詳しく(参考文献参照)、付け加えることもないのですが、一般にあまり目に触れない専門書に掲載されていますので、ここで簡単にご紹介しましょう。
現在確認される道雪(鑑連)の出した文書は150通ほど。道雪(鑑連)の花押は、天正二年に入道して道雪と名乗った際に大きく変化します。それ以前、「鑑連」時代の花押は永弘文書中の一点(図:鑑連A型)を除き、大きく見ると同形の花押(図:鑑連B型、細かく分類すると五つに分かれる)です。「道雪」時代の花押も、立花文書中の一点(図:道雪D型)を除き、ほぼ同形(図:道雪C型、これも五つに細分化できる)と言われています。道雪の場合、一つの花押の形を数年使用する場合もあれば、数ヶ月で変更する時もあったようです。花押を変更する理由は、長く使用すると真似をされて、計略に利用される事を恐れることもあったでしょう。手紙をもらった側は、その手紙の真偽を花押を確かめることでも確認します。形が違っていると、偽物と判断される可能性もあります。花押とは、そのくらい重要なものでした。
天正十二年と推定される戸次道雪・高橋紹運連署書状(広島大学所蔵「蒲池文書」)の追而書には「追而雪申候、頃腫物相煩、手不相叶候条、判形無正躰候、為御存知候」と、腫れ物が出来て判形(花押)の形がキチンとかけていないと、断りをいれています。疑われることを恐れたのでしょう。実際にこの花押は、同形の他の花押と比べ、形が少しブレています。
このような例は他にもあります。戦国時代の柳川の国人蒲池鑑盛(宗雪)が横岳氏に出した書状(「横岳文書」)には「宗雪 判」とあり、一見後代の写のようですが、これにも追而書に「追而眼気故、判形不申候、御不審有ましく候」と、目の病気のため花押が書けなかったので不審に思わないでくださいとの追記があります。また大友宗麟の子義統は天正十三年四月から九月頃まで、花押の代わりに印章を使用しますが、その頃病気だったため花押が書けなかったと言われています。
先日、ある方から「道雪」と書かれた文書が出てきたとお電話をいただきました。未見のため、既に知られているものかどうかも分かりませんが、今後新たに発見される文書から、先の山田氏の研究が補強・細分化されたり、或いは逆に変更を迫られる場合もあると思います。それらを通じて、戸次道雪の研究が進んでいきます。戸次道雪(鑑連)の文書があれば、柳川古文書館までご一報ください。 |