国内に初めて鉄砲が伝来したのは、天文12(1543)年のこと。種子島に漂着したポルトガル人によりもたらされたこの武器は、戦国の騒乱の只中にあったわが国において、戦いに有効な新しい武器として、瞬く間に全国へと広がりました。
立花家文書の中にも鉄砲の書上などがいくつか残されており、江戸時代には武家の備えとして多数の鉄砲を所持していたと思われますが、現存する立花家伝来の鉄砲のうち火縄銃墨縄は由緒ある伝来品として大切に秘蔵されてきたものです。昭和7年に作成された立花家伝来の什器類の総目録である「柳川立花家 御什器目録」の第三巻「武」の部、鉄砲の項目では「墨縄筒」としてこの火縄銃がリストのトップにあげられており、写しも作られていたと思われることからも、立花家においてこの火縄銃が大切に扱われていたことが確認できます。
火縄銃墨縄は、総長127.5センチ、口径14ミリ、木・鋳鉄製で銃底に
「行やらで、山ぢ暮らしつ時鳥、今一こえのきかまほしさに 墨縄」
という和歌が彫られていることから「墨縄」の名称で呼ばれています。木材などにまっすぐ線をひくために用いられる墨壺と呼ばれる大工道具がありますが、これについている糸巻き車にまいてある麻糸のことを「墨縄」と呼びます。おそらく鉄砲の玉がまっすぐに飛んでいくことから連想してこの名がつけられたのでしょう。
さて、この火縄銃墨縄は立花宗茂の所用として伝わっていますが、次のような逸話が残されています。碧蹄館の戦いのあと、浮田秀家の戦勝の宴の席で、黒田長政と立花宗茂との間で鉄砲と弓の優劣論がおこります。長政は銃の利点を挙げて弓の全廃を主張しますが、宗茂は弓と鉄砲それぞれに長所と短所があると反論し、各々の武器を用いて実地に優劣を競い、勝者が敗者の武器を取り上げるということになりました。笄を標的として長政が銃、宗茂が弓でそれぞれの技を競い、宗茂が勝利したため長政からこの銃を贈られたということです。
宗茂が射芸に秀でていたことはつとに知られており、尾村甚左衛門尉連続や中江新八、吉田茂武らから弓術の免許を受けていることからも確認できますが、火縄銃墨縄にまつわる逸話もそのことを示すものと言えます。ちなみに、その後秀家の勧めで宗茂の弓も黒田長政へと贈られたということです。 |