立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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Vol.04 忠茂と鍋姫の婚姻 2006/1

立花忠茂肖像実子のいなかった宗茂を継いで柳河藩2代藩主となったのが、甥にあたる忠茂です。忠茂は、宗茂の実弟直次の四男として慶長17年(1612)7月7日に生まれますが、即日に宗茂の養子となります。忠茂は元和8年(1622)に元服、寛永6年ころから徐々に宗茂から権限を委譲され始めます。そして、宗茂の隠居をうけて、同14年に家督を継承します。宗茂は寛永19年に没しますが、その翌々年の正保元年(1644)、忠茂と伊達忠宗の娘鍋子との婚儀がおこなわれます。

忠茂はそれ以前に、西の丸老中であった永井尚政の娘長子(玉樹院)を寛永7年(1630)に娶っていましたが、同11年に亡くなっており、継室を迎えることになったのです。ところで、「柳川御留守居中へ被遣候御書控」(立花文書389)という史料は、江戸にいる忠茂が国元の家臣に宛てた書状を写したものですが、この中に鍋姫との婚儀について触れた書状が記載されています。この史料から、この婚儀が決定した直後の様子についてみてみたいと思います。

この史料によれば、忠茂と鍋姫との縁談は、前年の寛永20年の冬に持ち上がったようです。しかし、当初忠茂は「つりあわぬ身躰」だとして、断りたいと考えていたようです。なるほど、仙台の伊達家といえば、62万石もある全国でも三本の指に入る大藩です。忠茂が、「釣り合わない」と感じるのも無理はありません。しかしながら、この縁談には、将軍家光の意向が強く働いており、「上意」であるとして、忠茂もこの婚儀を了承したようです。

柳川様御留守居中へ被遣候御書控忠茂をさらに悩ませていたのが、書状にも「金銀これなく」と記されている厳しい財政事情でした。しかも幕府老中からは、「祝言は忠茂が国元に下向する前までに行われたい」、との申し入れがなされていました。このように急では、資金の調達もままななりません。また、江戸上屋敷には祝言をあげるに相応しい建物がないため、屋敷の増改築が必要でした。こうなると多大な出費は避けられません。忠茂が頭を悩ませていると、老中のほうから、下屋敷で祝言を行うよう指示がなされます。その理由は、下屋敷は面積も広く、また将軍の御成りがこれまでに2回もあり、なにより宗茂が隠居後に住した目出度い屋敷である、というものでした。下屋敷であれば、作事も少なくて済み、また防火など管理の面でも、柳河藩にとっても好都合でした。老中が下屋敷を指示した表向きの理由は、先にあげたとおりですが、忠茂も推測しているように、柳河藩の苦しい財政事情を考えてのことでしょう。

史料は、祝言が行われる前までで終わっていて、残念ながらその様子などについては知ることができません。しかし、忠茂は書状のなかで、4月に入れば国元へ帰る許可が下りるであろうとの観測を述べ、祝言の日取りを4月2・3日ころと考えていたようです。また、それに間に合うよう、国元の主だった家臣に江戸へ登るよう指示を出したりもしています。

ところで、この鍋姫は仙台藩第3代藩主伊達綱宗の姉にあたります。伊達綱宗といえば、いわゆる伊達騒動の発端になった人物です。忠茂は、伊達家の親族大名として、この騒動の事態収拾に深く関与していくこととなるのですが、それはまた別の機会にでも。

柳川古文書館 学芸員 白石直樹


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