柳川藩主立花家の家紋の一つに杏葉紋(ぎょうようもん)があります。もとは豊後の戦国大名大友家が用いた家紋で、江戸時代には肥前佐賀藩主鍋島家が定紋として用いました(図1)。葉が二枚、抱き合わせになったような形態をしているため、その名の通り杏の葉を象った紋と解釈されがちですが、沼田頼輔の『日本紋章学』によると、杏葉紋の‘杏葉’とは本来は唐鞍の鞦(しりがい)にかける金銅製の装飾品だったといいます(図2)。装飾品である‘杏葉’の名前の由来については、杏の葉や銀杏の葉に似ているためという説や西域から伝わった語源という説がありますが、その由来は明らかではないようです。
杏葉はその形状の優美さから、鎌倉時代には公家の家紋として用いられ、室町時代に入ると武家の家紋としても用いられるようになります。中世の家紋を収録した『見聞諸家紋』によると室町時代中期には、大友家をはじめ摂津家や田村家などが杏葉紋を用いています。なかでも大友家の杏葉紋は有名で、武勲のあった家臣に報奨としてこの紋を与えたため、大友家の勢力が広まるにつれ杏葉紋も権威を高め、九州の諸将の憧れの家紋になったと言われます(図3)。
大友家から杏葉紋を与えられた部下たちは同紋衆と呼ばれましたが、そのうちの一つが立花家です。立花家の定紋は祇園守紋ですが(コラム「家紋の話」参照)、杏葉紋の作例も江戸時代を通して見られ、中でも初代藩主立花宗茂にゆかりのものが多いようです。江戸時代以降、大名家で杏葉紋を用いたのはこの立花家のほかに、鍋島家が有名です。『九州治乱記』には、大友家と龍造寺家が争った元亀元年(1570)の今山の戦いで、篝火に映える大友家の杏葉紋を見て、龍造寺の家臣で後に佐賀藩祖となった鍋島直茂が「あの幕の紋を見よ、美はしき紋なり。唯今、此陣を一戦の中に切崩し、是を吉例に用いて、則ち我が紋にすべきぞ」と言ったと書かれています。戦勝した鍋島家は以後杏葉紋を定紋とし、替紋である五七桐紋はほとんど用いることなく、この紋のみを用い続けました。
さて、一口に杏葉紋といってもさまざまなタイプがあり、立花家の杏葉紋は大きくは次の三つに分けられます。一つは茗荷と杏葉の混合している杏葉紋(図4)、二つには花杏葉紋の蘂(しべ)に相当する部分が葉になっている杏葉紋(図5)、三つ目は蘂に相当する部分が桐紋になっている桐花杏葉紋(図6)で、いずれも鍋島家には見られないタイプです。それぞれの用い分けについては不明ですが、蘂の部分が葉になっている杏葉紋(図5)は同じく同紋衆である田原氏や松岡氏、志賀氏の家紋がこれと同じ形をしていますので、おそらくは同紋衆に共通のタイプだったのかもしれません。
鍋島家の杏葉紋は立花家のものとは若干異なり、筋杏葉紋(図7)と花杏葉紋(図8)、そして変わり花杏葉紋に分けられます。最初は『見聞諸家紋』にある大友家の家紋(図3)と同じ形でしたが、17世紀の後半あたりから筋杏葉紋があらわれ、以後、筋杏葉紋は鍋島家の中でも本家筋のみ用いることのできる家紋で、花杏葉紋は本家の女性や子供たち、あるいは分家がもちいる家紋、というように厳密に用い分けがなされるようになりました。
ところで、杏葉紋とその形態が酷似しているため、混同される紋に茗荷紋があります。茗荷紋は杏葉紋の形からヒントを得て、茗荷の花になぞらえたものといわれ、神仏のご加護を得るという意味の「冥加」と音が通じることから、瑞祥的な意味を持つ家紋として用いられたと言われます。両者は確かによく似ていますが、葉や先端部の表現は明らかに異なっています(図9・10)。江戸時代に書かれた『大友公御家覚書』には大友家が同紋衆に下賜した家紋は「茗荷の丸なり。但しわりみやうか、きやうえうの御紋とこれをいふなり。杏葉又蓑蓉とも書くなり。」と記しています。江戸時代を通して両者は大変よく混同され、杏葉紋のことを茗荷紋と記述する例は他にも多く見られます。しかし、鍋島家伝来資料の中に茗荷紋を用いた作例はなく、やはり表記の上でのみ混同されていたようです。
ちなみに、現在でも佐賀で「鍋島のお殿様の家紋は‘抱き茗荷’やもんね」とおっしゃる方は結構多いのです。 |