立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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Vol.06 立花家伝来の唐物茶壺について 2006/6

図1立花家に「蓮華王壺」の名称で伝わる褐釉四耳壺(かつゆうしじこ)は、伝承によると立花宗茂が大阪城で豊臣秀吉より拝領したとされる唐物茶壺です<図1>。唐物とは中国より請来した品の総称で、本作品は葉茶を充填・保管する茶壺として用います。唐物茶壺は、もともと輸入香辛料や薬品などの容器であった中国産の壺で、商品を詰めて輸入されたこれらの壺を、わが国では13−14世紀頃には茶壺として活用していたようです。これらの壺はいわば雑器であり、生産地である中国では評価の対象外におかれていました。しかしわが国では、防湿性・密閉性に優れた性質を持つこの壺をまず実用品として活用し、次第に鑑賞の対象としても高く評価するようになりました。この唐物茶壺賞玩の背景には、自然質朴な物の中に美を見出すというわが国独自の美意識が潜んでいると考えられます。

立花家に伝わる唐物茶壺は高さ35.0cm、口径12.6cm、撫肩でほっそりとした形姿で、四つの耳を持ち、暗く黄味を帯びた褐色の釉が畳付(壺の底部)の上、6〜8cmほど残してかけられています。制作年代は中国・明時代(15世紀−16世紀)と考えられます。「蓮華王壺」の名称は肩部に「蓮華王印」と呼ばれる印が押されていることに由来します。蓮華王印とは一般的には中央に「王」字、その上下に蓮華文のあらわされたものを指しますが、蓮華の文様を上部のみあるいは下部のみにあらわすもの、王の文字が無く蓮華文のみをあらわすものなどその印形は様々なものがあるとされます。本作品は中央に「王」字、上部に笹竜胆風の笠、下部に蝶形の台をあらわす他に類例のない印形です<図2>。茶壺の口は封紙が貼られ、その上に紅地雲板唐草文金襴の口覆がかけられています。茶壺を鑑賞する時はこの口覆をともに賞玩することが約束事となっています。その他の付属品として、紫網、浅葱地二重蔓牡丹文緞子袋が残されています<図3、図4>。
図2、図3、図4

茶壺は現在では茶器の中でもそれほど人気の高い道具とはいえませんが、信長・秀吉の時代は唐物茶壺賞玩の風潮が一種のブームと言える程にまでに高まった時期でした。そもそも、唐物茶壺に限らず、名のある人物によって所持され伝統的な価値観に裏付けられた「名物」茶器は、新興大名にとって権威の象徴であり渇仰されるものでした。信長や秀吉も唐物茶壺を含め様々な名物茶器の収集を行い、城中で唐物揃の茶会を催しています。その座敷飾りにおいて床の間、あるいは棚に複数の名物唐物茶壺を飾っている点が注目されます。武家の居住空間が、公的な空間である「晴れ」の場と、日常・私的な空間である「褻(け)」の場に分けられるようになって以来、茶壺は「褻(け)」の場で用いられる道具として格付けられてきました。しかし、信長・秀吉が城中殿舎の座敷飾りとして茶壺を用いたことによって、茶壺は一躍「晴れ」の場で用いられる道具となり、茶器の中でも筆頭道具として位置づけられることになります。また他の大名もこれに倣い、床飾りに茶壺を用いるようになりました。こうして、好むと好まざるとに関わらず、茶壺は大名としての格式を示すために備えなければならない公式道具となったのです。

このように唐物茶壺は大名としての「格」を示す公的な一面をもった道具であり、立花家においても大切に受け継がれてきたものであると考えられます。ただ残念なことに、本作品には過去に大きく四つに割れ、漆で補修した跡が見られます。また、興味深いことに、この茶壺は口に封紙が貼られたまま伝わっています。葉茶を詰め終わった茶壺は、通常桐製の蓋をはめ蓋全体を覆う封紙を三重に貼り、涼しい場所で保管されます。そして、10月に茶壺の蓋の封紙を切る「口切」の茶事が行われますが、封印がされたままであるということは果たしてこの茶壺の中に葉茶が詰められたままであるのか、気になるところです。

立花家史料館 学芸員 才藤あずさ

○参考文献:徳川義宣「茶壺」 淡交社 昭和57年


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