立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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Vol.07 立花家大名火消のこと 2006/7

今回は少し趣向を変えて、大名火消についてお話ししましょう。

『火事と喧嘩は江戸の花…』とうたわれた江戸の大火とはどういうものだったのでしょうか。江戸時代264年間に大火とよばれる火事だけでも874回あったといわれ、何千、時には何万人もの人々が命をおとし、江戸の町の大部分が焦土と化すという凄まじい被災を被ることもありました。江戸は燃えやすい都市だったのです。大火後には火除地、広小路などの都市計画が実施され、それがまた江戸の周辺に移転して町を造り、大火のたびに江戸の町は発展膨張してゆき、火災による莫大な消費は江戸の経済成長を促すという一面も持っていました。ここで利を得たのは商人や職人層であり、大名家にとっては火消活動や焼失箇所の普請にかかる経費は財政を圧迫するものでしかありません。しかしながら、戦のない平和な時代にあって、火事場での活躍こそが武門の見栄となったという一面も忘れることはできません。

大名火消と町火消『天和笑委集巻之一』(天和2年から3年の江戸大火の惨状を記したもの)に、江戸時代初期の大名火消の様子を彷彿させる件があります。 「…然る間すわや火事ぞと言程こそあれ、火けしのともがらは言にたらず、おほくの諸大名、上意をうけたまはり、下知にしたがひ、さきをあらそひしりへに打立、やけ上るほのふををめあてに、こまをはやめ、むちをすゝめ、もみにまうで來集り給ふ、其有様をみるに、にはかの事とは言ながら、かねて用意ある事なれば、家々のしるしのまとひ、花かご、三ヶ月、三がいびし、さいの目、三つぼし、唐うちわ、ひらきあふぎ、せうぎの駒、糸すゝき、水くるま、きつかう、橘、菊、ます形、其外おもひおもひの家の印、皆金銀をちりばめ、指物みごとにさきにたたせ、其名もたかき諸大名、きらびやかなるくらあぶみ、むながゐはるび結構し、心もおよばぬしやうぞくに出立、手づなかいぐり、…(『新燕石十種 第五』より転載)」
華麗な火事装束に身を包み(後に、あまりの華美を禁止する御触れが出されることになりますが)金銀の纏をたたせて火事場へ駆けつける大名火消一行を多くの野次馬が見物したことでしょう。

さて、立花家大名火消はどうであったのでしょうか。立花家は、自藩の江戸屋敷周辺はもちろんのことですが、幕府の浅草御蔵火之番役についていたことが残された文書からわかっています。残念ながら当時の火消装束や纏などは残っておらず、武艦のわずかな記述からでは想像もままなりませんでしたが、近年の調査によって、柳川藩御用絵師を務めた梅沢晴峩の描く「江戸失火消防之景」(文政12年秋)という魅力的な絵巻の中にその勇姿を登場させていることがわかりました。

立花家火消この絵巻の最大の見せ場、火掛りの場面、炎と熱風と火の粉の中、白の花古文字紋の胸当に鼠色の革羽織、剣の纏を手に口を真一文字に結んで屋根の上に仁王立ちしているのは立花家の纏持ちです。実はこの手前の屋根には、いろは四十七組で有名な町火消(か組、ほ組、た組、わ組、を組)が描かれているのですが、その出で立ちを対比してみるのも興味深いものです。(ただし、現実の火事場ではこのように軽装であったというわけではなさそうです)ふりかかる火の粉の中にいるのは立花家の中間で、浅葱地の法被に白く染め抜かれているのは裏銭紋です。この法被は運よく現在まで当館に残されています。

中間法被、夏用火事装束この絵巻の中に藩主の姿を見つけることはできませんが、史料館には藩主が身に着けたと思われる夏向き?の火事装束の胸当が残されています。涼しげな生地に華麗なくずし祇園守紋が配されています。どの火事装束もなかなか傑出したデザイン感覚ではありませんか。

ちなみに、立花家の江戸屋敷は、江戸三大大火と呼ばれる明暦の大火、目黒行人坂の大火、丙寅の大火のすべてにおいて炎上しています。度重なる火事による普請事業、そして大名火消役としての務め、どちらも頭の痛いことであったことが文書の記録からみてとれますが、この「江戸失火消防之景」には、火事場で活躍するヒーローの姿のみが描き出されており、観る者のうさを幾ばくか晴らしたことでしょう。

立花家史料館 学芸員 植野かおり


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