現在、幕末期の柳河藩主の歴代を数える場合、9代鑑賢、10代鑑広、11代鑑備、12代鑑寛とするのが普通です(『藩史大辞典』など)。立花家文書に所収される系図にも、鑑賢を継ぐのは子の鑑広で、その次がその弟鑑備、そして鑑備の養子に入る鑑寛が最後の藩主となっています。しかし、『藩史総覧』(新人物往来社)など一部の本には、9代鑑賢、10代鑑備、11代鑑寛となっているものもあります。江戸時代の武家名鑑である「武鑑」を集めて収録した『大武鑑』の附録にも鑑広の名は見えず、鑑賢−鑑備−鑑寛という続きになっています。また、やはり江戸時代に編まれた「系図纂要」にも同様に記され、鑑備の脇に「本、鑑広」と注記されています。これは、鑑広と鑑備を同一人物と見なし、名乗りが鑑広から鑑備に替わったとしているのです。さらに、これらの史料を基に編纂された『華族家系大成』にも同様に鑑広の名は見えません。では、このような混乱はどこから生じたのでしょうか?
鑑広は、文政6年(1823)に柳川御花畠に生まれます。幼名は岩千代、万寿丸。文政13年家督予定者となって江戸上屋敷に入り、同年鑑賢から家督を相続しています。この時、実年齢は8歳でしたが、表向きには12歳とされました。天保4年(1833)2月19日、その鑑広はわずか11歳(公称15歳)で江戸上屋敷において亡くなってしまいます。当然、子供もいません。しかし、大名相続の規程では、藩主が17歳に達していなければ養子を取ることができませんでした(大森映子『お家相続 大名家の苦闘』角川書店)。すなわち、柳河藩立花家は断絶の危機に立たされることとなったのです。鑑広が実際よりも年齢を上に操作していたのも、公称年齢で早く17歳に達するようにする目的に他なりません。
柳河藩では、この危機に対して2つの対応策が検討されました。その一つは、鑑広の死を隠し弟保次郎と入れ替えてしまうというものです。これには、鑑広と保次郎の実年齢差4歳と、鑑広が「公」に年齢をかさ上げしていた4歳、あわせて8歳の年齢差が生じるという困難がありました。もう一つは、やはり鑑広の死を隠し、一門・家臣などより出来るだけ公称年齢に近い替え玉を立て、その後ある程度成長した保次郎に家督を継がせるというものでした。しかし、これにも保次郎に家督を継がせるまでにその替え玉に男子が産まれた場合、相続を巡る争いが起こるかも知れないという危険性を孕んでいました。
最終的には、前者の保次郎が鑑広の身代わりとなる案が採用され、天保4年6月4日秘密裏に保次郎一行は柳川を出発、7月11日に江戸上屋敷に入ることに成功します。そこから、保次郎は万寿丸鑑広となり、その名で公的な文書などを発しています。天保6年には将軍家斉に初御目見えを果たし、実名を鑑備と改めています。このように、柳河藩は、鑑広の死を隠し保次郎(鑑備)と入れ替えることに成功したのです。以上のような藩主の入れ替えが、先に見た2種類の系図を生じさせている要因となっているのです。すなわち、内々の系図では両者は当然別の人物として扱われますが、「公」的系図では鑑広は鑑備と同一人物であるというものです。
天保4年、幼くして亡くなった鑑広は、密かに江戸屋敷内に葬られます。露顕を恐れて法事なども行われなかったようです。嘉永2年(1849)、福厳寺の鑑備廟所の近くに観音堂を建ててそこに鑑広の位牌を安置し、この年から表立って鑑広の法事を行う旨が達せられます。そして、その扱いは、代々藩主の命日に準じるものとされました。
時は下って明治35年(1902)、鑑広70回忌にそれまでの観音堂を解除し、改めて他の藩主と同様に石塔が建立されます。この時には、旧柳河藩有志士族中608名から灯籠も奉納されています。そして、その法事の扱いも、代々藩主と同様に執行されることとなりました。ここに、鑑広はやっと藩主の一人として扱われるようになったのです。 |