立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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Vol.11 立花鑑良伝—勝海舟にその死を惜しまれた男— 2007/7

前回は明治期の当主立花寛治について述べましたが、今回は彼の兄にして、本来は立花家の家督を継ぐ予定でした立花鑑良についてお話しましょう。鑑良は数えにして16歳で夭逝しますが、実は幕末のある大物政治家にその早い死を惜しまれるほどの人物でした。

立花鑑良は幼名を主(きみ)太郎、柳河藩最後の藩主鑑寛の長男として安政4年6月に御花畠で生まれます。明治維新により立花鑑寛・鑑良親子は華族という地位に列せられ、さらに明治4年7月の廃藩置県にともない、彼らは東京下谷にありました旧柳河藩の上屋敷へ移住します。家扶として同行した吉田孫一郎はその頃の様子を「備忘」に書き記しています。それによりますと明治4年10月19日に「若殿様八時頃より勝先生へ御出ニ相成」と見えます。この「勝先生」こそ誰あろうあの勝海舟を指すことは勝自身の日記によって確認できます。勝の日記の明治4年10月6日条には「柳河、大村務、知事弟の事相談」とあります。翌7日条の欄外に「立花旧知事殿御子息」とメモ書きされていますことから、ここでの「知事弟」は鑑良と見なせるでしょう。この頃の勝海舟は静岡に在住し、様々な人物の国内遊学や海外留学の支援をしていました。廃藩置県後に一時上京し、その間に前述したように立花父子と面会し、その後、静岡に戻っています。また勝の日記の明治5年1月29日条には「立花従五位、来五日、東京出立、此地へ留学の事、万端頼み候旨申し越す」とあり、静岡に到着後に鑑良は勝に挨拶に訪れていることがわかります。これらの記述から鑑良の静岡遊学には勝の助力があったと推測されます。ちなみに実現はしませんでしたが、鑑良の遊学後に、勝のもとを鑑寛が訪れ、二男寛治および三男寛正の遊学先についても頼んでいます。

さて勝の助力により静岡県へ遊学した鑑良ですが、不幸にも明治5年12月1日に熱病に罹ります。そして看病の甲斐空しく翌6年1月7日同地にて逝去しました。立花家をはじめとして多くの人々がその死を嘆いたことは想像に難くありません。実はその中の一人に勝海舟も含まれるのです。その訃報が届いた明治6年1月12日条には「立花従五位病死の知らせ。此人、良質、学術甚だ勉励、行先きに望み有りしが、真に惜しむべし」とあります。また鑑良の才能については次のような証言もあります。『旧柳川藩志』の記述に従えば、鑑良が亡くなった際にかつて彼を指導していた志賀喬木もまた「嗚呼天何ぞ無常なるや。此の慈愛英明の嗣君を喪ふは豈に啻に柳地人の不幸のみならんや」とその死を嘆じたそうです。

このように寛治の兄鑑良は周囲から将来を嘱望された逸材であったと考えられます。ここで重要なのは、そのような人物の跡に寛治は立花家の世継ぎとして迎えられたという点です。本来、殿様という地位は担がれ上手であることが求められていました。何もしない「凡君」であることが望ましいとまで言う人もいます。しかし状況は大きく移り変わり明治維新によって彼ら大名は華族という新たな地位のもとで国家への貢献が強く求められるようになりました。そのような時代において、鑑良以下の遊学の手配は、華族の先行きを切り開くための鑑寛なりの配慮であったと考えられます。そして彼らの評価を踏まえると鑑良はその期待に沿える可能性を示したことになります。しかし可能性を残したまま亡くなったために、その期待を嫡子として呼び戻された寛治が一身に背負ってしまうことになりました。立花家の家督相続直後の寛治が置かれていた立場は、兄鑑良の存在を抜きには理解できないと言えるでしょう。

日本福祉大学知多半島総合研究所 主任研究員 内山一幸


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