立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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Vol.12 柳川城 2007/8

柳川城跡柳川城を語るとき、柳川では俗に「柳川三年肥後三月肥前久留米は朝茶の子」と言われます。柳川城を落とすのは三年、肥後(熊本城)は三月、肥前(佐賀城)・久留米城は朝飯前だというのです。大変な自信です。

この柳川城は、戦国時代に柳川を治めていた蒲池氏が築城したものですが、その年代などはっきりしたことはわかりません。戦国後期に蒲池氏の当主であった蒲池鑑盛(宗雪)は、大友義鎮(宗麟)のもとで勢力を増していきますが、天正六年、日向国高城・耳川の合戦で大友氏が島津氏に大敗すると(鑑盛はこの戦いで戦死)、筑後の領主たちも動揺し、その機に乗じた肥前の龍造寺氏の勢力が筑後にまでのびてきます。

この時鑑盛の跡を継いだ息子鎮並は、大友氏を離れて龍造寺氏につきますが、翌年には龍造寺氏に叛き大友氏へ通じます。「田尻輝種田尻氏由緒書出」(田尻家文書)には「蒲池鎮並逆心に依り、天正八年二月十三日、佐賀従り御勢を向けられ、柳川籠城、三百日程相支え申され候えども、色々御知略を以って、御味方に御引付成られ候」と、龍造寺氏に攻められながら三百日も落城しなかったと記されています。結局、この時には和睦したのですが、翌九年に佐賀に誘き出された鎮並は殺害され、同時に柳川城も攻められて柳川の蒲池氏は滅亡することになります。

この後、柳川城には龍造寺氏の兵が入りますが、天正十二年に龍造寺隆信が肥前国嶋原沖田畷で戦死すると、大友氏は筑後での勢力を回復しようと、戸次道雪・高橋紹運などを派遣します。「薦野家譜 三 豊後勢筑後国出張 附道雪・紹運黒木出陣所々働の事」によると「爰におゐて道雪・紹運、諸將と柳川の城を攻へき評議あり、此柳川の城と申ハ、二方は海により、二方ハ沼堀縦横にして、要害堅固の地也、其上佐賀の士将龍造寺家治(晴)、多勢にてこれを守る、又この比神代・熊代等加勢として籠りしかハ、率爾ニハ攻よせ難しと、詮議区々なる」と、戦国末期の柳川城が、二方を海で囲まれ、二方は堀割が縦横に入るため、非常に堅固な城であるとしています。

一方、守る側の龍造寺家の武将鍋島氏の家譜「鍋島直茂公譜考補 五巻 筑後御出陣」には「一、九月十五日道雪・紹運坂東寺へ陣ヲトリ、柳河ノ城ヲ攻ント議ス、然レトモ当城ハ究竟ノ要害ニテ、龍造寺ノ軍兵数千騎籠リ居、浦々ニ数艘ノ番船ヲ繋テ、所々ニ端城ヲ構ヘテ、佐嘉ノ通路ヲ自由ニシケレハ、卒忽ニ攻ル事不相叶」と柳川城を「究竟ノ要害」と記しています。結局、名将戸次道雪も柳川城を攻めあぐねて、髙良山に陣替えし、翌年に陣没することになります。

ところがどういう因縁でしょうか。天正十四年の豊臣秀吉の九州国割によって、立花宗茂が養父道雪が攻めあぐねた柳川城へ入城し、近世大名としてスタートすることになるのです。 

柳川古文書館 学芸員 田渕義樹


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