立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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立花宗茂書状
(折紙、38.2×51.9)
立花宗茂書状
翻刻文
【逐語訳】
矢島重成宛の書状と手形案文を披見した。太米のことついては、先月15日に幕府勘定奉行である松平正綱殿と伊丹康勝殿へ申し入れ、両人から年寄衆へ相談の上折紙を下されたので、小早を申し付け、そちらからの飛脚に一人添えて送った。まだ着いていないか。心もとなく思う。悪い慣わしである。ことさら先年田中改易後の筑後を支配した代官衆から御蔵へも太米の勘定があったことなので、弁解なく渡される様にとの松平正綱・伊丹康勝から竹中重義殿への折紙である。きっと近いうちに着くであろう。また、□のことは少しの混雑は仕方ないことである。竹中重義殿へ払ったくらいにして、早々に解決するのがよかろう。岡田善同殿も美濃へ御用があって一両日前参られた。話し合いには及ばないので、早々に京升での計算で請取手形を取り、解決するつもりだ。自分も明年大坂御普請を仰せ付けられ、暇を下され江戸より下ってきている。こちらは少し手間取っているので、当月中には筑後へ帰着するだろう。そちらは早々手すき次第に帰国せよ。竹中重義殿からの手紙その他懇切であると書中で御礼を申し入れた。万事以来岡田殿との算用次第であるが、こちらは少しの混雑は竹中殿の指図次第で早々解決するだろう。追伸。そちらは一刻も早く解決して、早々に柳川へ帰国せよ。こちらも万事状況がよく、御両所様が暇を下され、先の28日に大坂まで下ってきている。大坂御普請のことは、京都方々であるので(京都の近くなどでの意ヵ)、近国の御譜代衆は皆残らず望まれる様子であるので、我々も急な事ではあるが仰せ付けられ、そのようなことをこちらで申し付け、10日時分は出舟するつもりである。最早少しの混雑のことはこちらへ尋ねるに及ばず、結着して帰国せよ。

:キレ(破損のため判読不明)

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翻刻文
【釈文】
尚々、其元一刻も」はやく隙明、早々柳川へ」可罷帰候、こゝもと」万仕合よく、両御所様御暇」被下、前廿八日大坂まて」罷下候、大坂御ふしん之儀、」京都方々ニ而候故、近國之」御普代衆何も不残望被申候」躰ニ候間、我々も俄ニて候へ共」被仰付、さやう之儀爰元ニて」申付、十日時分者出舟之」覚悟ニ候、もはや少之」出入之儀者此方へ不及」相尋、澄候而可罷帰候、以上、
石見所迄之書状并手」形之案文共令披見候、」
一、太米之儀、先月十五日ニ即」松平右衛門尉殿・伊丹喜之助殿へ」申入、御両人・又御年寄衆へ」相談を以、右両人折紙参候間、」此の方こはや申付、其方」之飛脚ニ壱人相添へ」指越候、于今参着無之候哉、」無心元存候、因習之儀ニ候、」事更筑後へ先年御」越候御代官衆・御蔵へも」太米御勘定在之事候間、無口能被相渡候様にとの」右両人・采女殿への折」帋入まいらせ候つる、定而于今ハ」可為参着候、」
一、□之儀少之出入不苦」儀ニ候、采女殿へも御拂候」なミに仕、早々相済可然候、」岡将監も美濃へ御用候而」一両日前被参候、不及談合候間、早々京舛之」請取手形取、相澄可申候、」
一、我々事も大坂明年御普請被仰付、御暇被下、」罷下候、爰元少隙入候間、」当月中ニハ筑後へ可」罷着候、其元早々隙明」可罷帰候、竹采女殿より」音信万懇切之由、即書」中ニ御礼申入候、万事」以来又将監殿とのさん用ニて」こそ候へ、爰元少之出入申候」儀者采女殿さし圖次第ニ」早々隙明可然候、謹言、」
(元和九年ヵ)
飛騨     
壬八月三日
宗茂(花押)
谷田喜左衛門殿
佐田清兵衛殿
四ヶ所藤左衛門殿

:キレ(破損のため判読不明)

【読み下し】
石見所迄の書状并びに手形の案文共披見せしめ候、
一、太米の儀、先月十五日に即ち松平右衛門尉殿・伊丹喜之助殿へ申し入れ、御両人より又御年寄衆へ相談を以て、右両人折紙参り候間、此の方こばや申し付け、其の方よりの飛脚に壱人相添え指し越し候、今に参着これなく候哉、心元なく存じ候、因習の儀に候、事更筑後へ先年御越し候御代官衆より御蔵へも太米御勘定これあり候事候間、口能なく相渡され候様にとの右両人より采女殿への折帋入れまいらせ候つる、定めて今には参着たるべく候、
一、□の儀少しの出入り苦しからざる儀に候、采女殿へも御拂候なみに仕り、早々相済まし然るべく候、岡将監も美濃へ御用候て一両日前参られ候、談合に及ばず候間、早々京舛の請取手形取り、相澄まし申すべく候、
一、我々事も大坂明年御普請仰せ付けられ、御暇下され、罷り下り候、爰元少し隙入り候間、当月中には筑後へ罷り着くべく候、其元早々隙明き罷り帰るべく候、竹采女殿より音信万懇切の由、即ち書中に御礼申し入れ候、万事以来又将監殿とのさん用にてこそ候へ、爰元少しの出入り申し候儀は采女殿さし図次第に早々隙明き然るべく候、謹言、
(元和九年ヵ)
飛騨     
壬八月三日
宗茂(花押)
谷田喜左衛門殿
佐田清兵衛殿
四ヶ所藤左衛門殿
尚々、其元一刻もはやく隙明き、早々柳川へ罷り帰るべく候、ここもと万仕合せよく、両御所様御暇下され、前廿八日大坂まで罷り下り候、大坂御ふしんの儀、京都方々にて候故、近国の御普代衆何も残らず望み申され候躰にて候間、我々も俄にて候え共仰せ付けられ、さやうの儀爰元にて申し付け、十日時分は出舟の覚悟に候、もはや少しの出入りの儀は此の方へ相尋ねるに及ばず、澄まし候て罷り帰るべく候、以上、

:キレ(破損のため判読不明)

【語句】
*石見…矢島重成ヵ。「寛永六年分限帳」には大組頭三千石と見える。
*太米(たいまい)…大唐米。イネの栽培品種。米粒がやや小さく細長で薄い赤班のあるもの。あかごめ。たいとうごめ。とうぼし。
*松平右衛門尉…松平正綱ヵ。元駿府に隠居した家康の出頭人。元和6年(1620)、命により五畿内巡見。同9年7月、家光上洛の供を勤める。勘定奉行ヵ(『寛政重修諸家譜』)。
*伊丹喜之助…伊丹康勝。最上義俊・本多正純の所領没収に携わる。?〜慶安3年(1650)、勘定奉行(『寛政重修諸家譜』)。
*御年寄衆…のちの幕府老中。
*折紙…古文書の様式の一つ。料紙を横に半折して用いた文書。
*こはや(小早)…江戸時代の、海運で、早廻りの廻船を早船といい、その小型のものをいう。通常300石積以下の荷船で、特定の船型をいうものではなく、渡海船のような50石積級から500石積級のものも含まれる。
*筑後へ先年御越し候御代官衆…元和6〜7年初頭に懸け、田中氏改易後の筑後国を代官として支配した松倉重政・竹中重義・岡田善同のこと。
*口能…長々と無駄な弁解をすること。
*采女…竹中重義。豊後府内2万石(『寛政重修諸家譜』)。
*岡将監…岡田善同。慶長5年(1600)より徳川家康の麾下となり、同6年美濃国可児・羽栗郡のうち5千石を賜う。美濃国の奉行を勤め、近江、伊勢、筑後などの郡代を兼ねた(『寛政重修諸家譜』)。
*京舛…升の一種。京都を中心に使われていたところからいう。方4寸9分(約14.7cm)、深さ2寸7分(約8.1cm)。それまで種々雑多であった枡を、秀吉が天下を統一後、京都の商業枡に統一したもの。江戸時代を通して標準となった。
*隙入…手間どること。時間がかかること。用事に時間をとられること。
*隙明…仕事がなくなって暇になる時。閑暇の時。てすきの時。
*両御所様…徳川秀忠・家光。
*谷田喜左衛門…
*佐田清兵衛…佐田統春。元和8年130石、寛永3年70石加増。寛永14年島原にて戦死(穴井綾香「佐田家文書解題」)(『収集諸家文書目録IV』)。
*四ヶ所藤左衛門…四ヶ所常貞。元和8年150石。寛永9年病死。


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