島津軍との交戦の末、紹運以下700名が壮烈な戦死を遂げました
岩屋城は四王寺山の南端に築かれた戦国時代の山城です。大友一族の一万田弾正忠の弟は、筑後の名門である高橋家に入り鑑種を名乗り、筑前での拠点として宝満城を築きますが、岩屋城はこの宝満城の支城として築かれました。
永禄9年、鑑種は毛利氏や秋月氏に呼応して大友家に謀反をおこし豊前小倉に移されますが、大友宗麟は吉弘鑑理の次男である鎮種(高橋紹運)を高橋家に入れて、岩屋・宝満城を守る高橋家を再興させました。
天正14(1586)年、島津義久が九州平定を意図して大軍を北上させ、紹運の守る岩屋城を取り囲みます。これに先立って宗茂は紹運に立花城への退去を勧めたと言われますが、紹運は宗茂の弟直次らを宝満城に入れ、決戦に臨みました。一説によると島津軍5万の大軍に対し、城方はわずか700余名と伝えられ、14日間におよぶ激闘のすえ、岩屋城は陥落し、紹運以下700余名の将兵はことごとく玉砕するという壮烈な最期をとげました。 |