立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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耕雲寺

前回、立花宗茂の書状について書きましたが、その書状の一つは、立花宗繁のものでした。宗茂の実父、高橋紹運の次男直次(宗茂の実弟)が三池で高橋家を継ぎますが、兄と同じ立花を名乗ることになります。関が原の戦いの後、一旦三池の領地を没収され、常陸国に移されますが、長男の種次の時代に再び三池に1万石の大名として戻ります。これが三池立花藩です。その種次の弟が宗繁で、立花内膳家を興します。宗茂のあとを継ぐ立花家三代目忠茂は宗繁の弟になります。

立花内膳家は、柳川立花藩の分家という位置づけですが、三池立花藩は、1万石の小藩ではありましたが、独立した藩であり、歴代藩主は非常に優秀な官僚として活躍した藩でもあり、また数奇な運命をたどった藩でもあります。今回は、三池立花藩のことについて、少し触れてみます。

高橋紹運の岩屋城のことはこのコラムにも書きましたが、三池藩6代目藩主立花種周(たねちか)は、幕府若年寄りの要職にありながら、政治抗争に巻き込まれ、失脚、蟄居を命ぜられたうえに、後を継いだ種善とともに、陸奥下手渡藩に左遷されます。下手渡藩は現在、伊達市の月舘町にその陣屋の跡があります。種善から3代この下手渡藩は存続し、明治になって再び三池に戻ることになりますが、この月舘町にある耕雲寺が代々藩主と家臣の菩提寺になっています。

大位牌この耕雲寺にお参りして驚いたのは、岩屋城で戦死された方々の名前を彫った大位牌が安置されていたことです。筑前國寳満巖屋篭城戦死者之霊と書かれた木製の位牌は高さ約1.5m、幅80cm、厚み15cmぐらいですが、位牌部分が2分割されるようになっており、それに台座と3つに分かれるようになっています。各部分の重さは相当なものでしょう。この大位牌をはるばる三池から、陸奥の国まで担いできたのです。いかに、三池藩においては、寳満、巖屋への想いが強かったかを感じさせます。

藩主の墓と向き合う家臣の墓耕雲寺の墓地には一段高いところに、種善、種温、種恭、の歴代3代の藩主の墓があり、それに向き合う形で、家臣の方々のお墓が建てられています。はるばる遠くから移住し苦労を共にしてきた、藩主、家臣の結びつきの強さを感じさせます。

下手渡藩は、63年間しか存続しませんでしたが、2代目藩主種温は老中格、3代目種恭は幕府若年寄老中に採りたてられ、明治になってからは初代学習院院長を務めるなど、左遷された後にも代々幕府の要職についていることから、非常に優秀だったことがわかります。

また、月舘には当時藩主とともに三池から移住された家臣の一部の子孫の方々が残られています。この方々により、陣屋の跡には立派な記念碑が建てられ、綺麗に保存されていました。

2008年2月 立花家17代 立花宗鑑


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