立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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戸次道雪譲状写
戸次道雪譲状写
天正三(1575)年五月廿八日
戸次道雪譲状写 立花文書
翻刻文
天正三年五月、戸次鑑連(道雪)は嫡女誾千代に立花城の家督などを譲ります。前半には立花城やそれに付随する城などに関する大友家よりの文書のほか、拝領した刀などが記されていますが、後半には「御城置物之事」として、立花城に備蓄されていた品々が書き上げられています。そこには、倉庫群が設けられ、米・塩などの食料、筵・薪・縄・松明などの必需品が蓄えられていたようです。また、城内には水瓶・大樽が置かれ、飲料水が蓄えられたのでしょう。この譲状には、豊後国の所領は見えません。すでに豊後の戸次氏の所領は、戸次鎮連が継承していたからでしょう。なお、譲状目録は誾千代が所持していたましたが、慶長五(一六〇〇)年、関ヶ原の役後、柳川を去る時焼き捨てたといわれています。

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翻刻文
    義統様 御判有
    宗麟様
   依無男子至誾千代女
   譲与員数事
一、立花東西松尾白岳御城督并
 御城領等請 上意御證判
 七通、同為御城属領地可相成
 證文 御書八通、続目御判相添渡事
一、刀一腰 作壹文字
 右、永禄五年壬戌十月十三日於豊
 前国規玖郡門司郷柳浦、
 中国衆懸合遂一戦冷泉五
 郎殿・桂兵部大夫・赤川助右衛門以下
 討捕為 御感於苅田陣令
 拝領之訖、仍号重代同御口能之
 御賀書并軍忠状袖御判有
 之事
一、打物壹腰 左文字大酉作
 右、永禄十年丁卯九月三日筑前
 於秋月休松遂合戦親族寄揆
 被官数十人令戦死、又歴々分捕
 高名為 御感於山隈令拝領
 是、仍号重代御口能之御賀書
 并軍忠状袖御判有之事
一、打刀一振 国俊丸貫
 右、永禄十二年二月至肥前国被
 向御人数砌、筑後巻節
 従日田郡御陣所御先急
 致出張為 御感宗麟御手
 次令拝領之訖、仍号重代、同
 翌日於筑後御口能之御賀書
 致頂戴事
一、長刀 壹枝長光
 右、愚老一代於在々所々令随身之、
 就中吉川・小早川頭人防長両
 備藝石雲伯其外数ヶ国之
 諸勢引率至當御城付詰陣
 為後巻 宗麟様日田郡迄
 依被成 御進発御分国中諸勢
 不残有出張、敵味方及三十箇国
 諸勢出合 之内対陣、于時永禄 
 十二年五月十八日敵陣長尾切懸
 自身碎手極高名、同親類寄
 揆被官、或分捕被疵、或歴々
 令戦死砌、別而御口能之御加書致
 頂戴、面目名誉忰家之可為重
 書者也、同軍忠状袖御判有之、
 因茲彼一枝号重代
一、太刀一腰 国吉 累年令秘蔵之
一、腰刀一腰 吉光
一、刀一腰 高縄  
 腹巻壹領 栗紋 鐙一懸 モン輪違
         轡一口 妙珍宗次
一、永禄五年九月朔日豊前国至苅田
 表従上毛郡夜懸相企候砌、歴々
 分捕依被疵御加書并軍忠
 状袖御判有之、 同九月十三日
 松山城於切岸防戦之刻親類寄揆
 被官、或被疵或ハ令戦死依盡粉
 骨御賀書并軍忠状袖御
 判有之、同十一月十九日於松山城攻口家
 中之者盡粉骨為御感御賀書并
 軍忠状袖御判有之事
    (後略)

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