天正十四年六月中旬、島津氏は九州平定を企図し、大軍を北上させます。立花宗茂の実父高橋紹運の守る筑前国岩屋城も陥落、紹運は敗死します。次に宝満城も攻め落とし、遂に立花城を包囲します。しかし、島津氏が包囲を解いた隙に、島津方の星野氏が守る高鳥居城を落とし、また宝満・岩屋の両城も奪取します。このことを聞いた秀吉は、宗茂を「九州之一物」と激賞し、褒美として「新知」つまり新しい所領を与えることを約束しています。こうして、立花家は大友氏の家臣から大名へとなるのです。なおこの書状は、もともと宛所の一人である黒田家に伝わったものでしたが、寛文年間に立花家が所望し、同家の所有となったといわれています。 |