豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に出陣した立花宗茂は文禄四年帰陣し、伏見へのぼります。そこで、朝鮮での軍功にたいして「御扶助」を加えるべきとの秀吉の決定がされました。このころ筑前・筑後両国では検地が行われており、天正十九年の帳簿との差(出米)は、各大名の領知を認めない方針でした(大名の石高はかえないので、実質上領国が削減されることになります)。しかし、宗茂だけは先の決定をうけて、出米分の領知を認められます。しかし、三池郡を領していた弟高橋直次は、天正十九年の帳簿と同じ高のみを認められ、出米分は削減されます。これをうけて三池郡北部が立花領となり、三潴郡北部が立花領からはずれることとなります。 |