立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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豊臣秀吉知行宛行状
文禄四(1595)年十二月朔日
豊臣秀吉知行宛行状 立花文書
翻刻文
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に出陣した立花宗茂は文禄四年帰陣し、伏見へのぼります。そこで、朝鮮での軍功にたいして「御扶助」を加えるべきとの秀吉の決定がされました。このころ筑前・筑後両国では検地が行われており、天正十九年の帳簿との差(出米)は、各大名の領知を認めない方針でした(大名の石高はかえないので、実質上領国が削減されることになります)。しかし、宗茂だけは先の決定をうけて、出米分の領知を認められます。しかし、三池郡を領していた弟高橋直次は、天正十九年の帳簿と同じ高のみを認められ、出米分は削減されます。これをうけて三池郡北部が立花領となり、三潴郡北部が立花領からはずれることとなります。

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翻刻文
筑後国山門郡四万
五千弐拾参石・下妻郡
壱万七千八百四拾五石・
三潴郡内五万八千六百
弐拾石・三池郡内壱万
七百石、合拾参万弐千
二百石事目録別紙有、
今度以検地之上、令扶
助之訖、可全領知候也、
 文禄四
   十二月朔日(秀吉朱印)
       羽柴柳川侍従とのへ

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