立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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立花宗茂書状
(折紙、33.9×52.2)
立花宗茂書状
翻刻文
宗茂再封後の城下屋敷割りに関する史料。再封決定後、宗茂は元和7年(1621)2月28日に柳川城に再入城し、翌年9月まで在国していたようである(中野等『立花宗茂』)。宗茂が飛騨を名乗るのは、元和8年12月27日以降であるので、この史料は元和九年以降で宗茂が柳川を離れている(在江戸ヵ)時のものと考えられる。宗茂は遠国のことなので、堀・薦野・谷田を屋敷割の担当者として指名し、「年寄中」(家老)と相談の上、案を宗茂のもとへ送るように言っている。このように見ると、どんなに早くても元和9年4月段階までは、再封後の屋敷割りが確定を見ていない様子が窺える。

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翻刻文
【釈文】
尚々、此以後之」事ハ両三人」不申越間ハ、何れへも」屋敷」遣間敷候、」屋敷すくなく候間、」取候ハて不叶ものを」其元ニて年寄中」令相談可被申越候、以上、」
一筆申候、明屋敷共」書立見申候、屋敷ハ」数無之候、望候者共ハ」多々候、遠国之事候間、」自此方難計候、」今度之屋敷も不相済」遣候間、此以後之儀者」其方両三人迄望候」もの共ハ申理、為両」三人其元年寄中」令相談、各手前」以書立可申越候、其」次第可相定候、井濃」屋敷之事ハ、則子」権允へ可相渡候、謹言、
飛騨     
卯月十日
宗茂(花押)
堀六右衛門尉殿
薦野金右衛門殿
谷田六郎兵衛尉殿

【読み下し】
一筆申し候、明き屋敷共書き立て見申し候、屋敷は数これ無く候、望み候者共は多々候、遠国の事候間、此の方より計り難く候、今度の屋敷も相済まず遣し候間、此れ以後の儀は其の方両三人迄望候もの共は申し理り、両三人として其元年寄中相談せしめ、各手前より書き立てを以て申し越すべく候、其れ次第相定むべく候、井濃屋敷の事は、則ち子権允へ相渡すべく候、謹言、
飛騨     
卯月十日
宗茂(花押)
堀六右衛門尉殿
薦野金右衛門殿
谷田六郎兵衛尉殿
尚々、此れ以後の事は両三人より申し越さざる間は、何れへも屋敷遣し間敷く候、屋敷すくなく候間、取り候はて叶わざるものを其元にて年寄中相談せしめ申し越さるべく候、以上、

【語句】
*伊濃…不明
*権允…不明
*堀六右衛門尉…堀盛ヵ。一時期、内田家・板井家・十時家の養子となる。元和七年(1621)堀家へ帰家。高400石。寛永年中大坂城石垣手伝普請に従事。島原従軍の際物頭拝命。承応二年(1653)卒(『柳河藩享保八年藩士系図』上、P55)。
*薦野金右衛門…「有馬御陣ニ而御公儀之御扶持方銀割符帳」では高300石として見える。
*谷田六郎兵衛尉…谷田貞俊。『柳河藩享保八年藩士系図』によれば、宗茂再封後300石拝領、物頭鉄炮組。家中屋敷割役を仰せ付けられ、先に棚倉から柳川へ下ったとされる。寛永13年(1636)江戸城石垣手伝普請の奉行拝命。翌年普請成就の上、将軍へ御目見え、褒美を下賜される。同年、島原へ従軍し負傷。同16年、幟組に組替え。正保元年(1644)忠茂の婚儀に際し、法雲院(=鍋姫)「跡乗」(行列などに供奉して、最後に騎馬で行くこと。また、その人。)を勤める。寛文元年(1661)隠居、同年卒。


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