立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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柳川城跡
福岡県柳川市本城町82-2
柳川城跡

戦国時代には難攻不落の名城として知られました

「柳川」は鎌倉時代からみえる地名で、蒲池の国人に当たる蒲池鑑盛が永禄年中(1558〜1570)に柳川に築城したといわれています。しかし、鑑盛の子鎮漣の時、龍造寺隆信の謀略によって下蒲池氏は滅亡し、隆信は柳川城に鍋島信生、ついで龍造寺家晴をおきます。戦国時代の柳川城は度々の攻城戦に耐えた名城として知られ、家晴の守る柳川城を戸次道雪も攻めあぐねたと伝えられています。

天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州平定に際して、その功を認められた立花宗茂は、南筑後三郡を与えられ、柳川に城地をうつし、本格的な城郭整備にとりかかります。しかし、宗茂は関ヶ原の戦いにおいて西軍にくみしたため、わずか13年で改易され、宗茂の城郭整備事業はその後入城した田中吉政によって引き継がれました。天守閣を備えた本格的な近世城郭は、この田中吉政の時代に築かれたと考えられます。その田中家も吉政の子忠政に後継がなく断絶し、再び立花宗茂が柳川藩主として返り咲きました。田中時代の柳川城がそのまま次の立花時代に引き継がれたかどうかは分かりませんが、これ以後、柳川城は柳川藩立花家11万石の居城として明治維新を迎えることとなります。

明治5(1872)年1月、天下の名城とうたわれた柳川城も失火により焼失し、石垣も海岸堤防の補強に使用されるなど、現在は柳城中学校の校庭の一隅に小浜と石垣の一部を残すのみとなっています。
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